熊本地震から...前震編その1。

熊本大分地震からもう5年ですね。

先日も東北から関東にかけて大きな地震があり、私が地震の揺れやサイレンに慣れることはないのだと実感しました。

 

震源地と呼ばれる熊本県益城町、ここには私の実家があります。もちろん、熊本地震の時にも住んでおりました。

最近になりようやく様々な心の整理がついたので、当時のことを書いていこうと思い、筆を取りました。

 

この地震の影響もあって上京を決めたのですが、それはまた別で。

 

熊本地震の前震である4/14、その日私は熊本市内にある、とあるホテルのレストランで仕事をしておりました。

丁度ディナータイムも落ち着いてきて、片付けをしながら店を閉める準備をしていた時。

最初は目眩のような小さな揺れでした。それから直ぐに大きな揺れ。館内アナウンスと携帯電話からのけたたましい緊急地震速報

立てなくなる程大きな横揺れの中、慌てて頭を守りながら落ちた食器の音が数枚響いたのを覚えています。

後から聞いた所、厨房の従業員が火を消して食器を抑えていたそうで、大量に落ちることはなかったそう。

 

まだお客様がいらっしゃった為、怪我がないかの確認と安全確保。外へ避難の旨をお声掛けし、上司の指示で手元にある貴重品を纏めた状態で待機。

待機中、少しでも情報が欲しく、スマートフォンTwitterを開くと「熊本で地震」「かなりでかいらしい」「震度5以上」などと自身のフォロワーが呟いており、それを見ながらも「ああ、これは大変なことになってしまった」とまだどこか他人事でした。

 

その後も数回大きな目眩のような余震があり、上司より外へ出るようにと指示を受け、お客様を案内しつつ外へ。

ここでようやく県外に出ていた兄に連絡が付きLINEによる安否確認のやり取りを行いました。

この時ほど「既読」の文字を有難く思ったことはありません。

この時点でホテル前の道には多くの観光客と近隣住民の方々がおり、皆、肩を寄せあって携帯の画面を長めつつ余震で揺れるホテルを眺めておりました。

 

夜、春らしい肌寒さが感じられる中、「震源地:益城町」の文字を呆然と見て、連絡の付かない母や弟と実家からそう離れていない震源地の地図を眺めて焦りとどこか漠然とした不安を感じたことを覚えています。

その後、どうにか連絡が取れるよう祈りながら、仕事仲間とお互い家族に連絡が取れないことを話し合いました。

しばらく余震のある中、ホテル側の備蓄である防災毛布や水、携帯食糧を上司達が持って戻ってきたことで、付近にいらっしゃる子どもやお年寄り、女性を優先して配ることになり、再度バタバタと慌ただしくなります。

付近の壁が崩れた、近くの家が傾いたらしい、停電、動物園から虎やライオンが逃げ出したというフェイクニュース、火事場泥棒が出たという噂などもちらほらと周りから聞こえ、ひそひそとした話し声や子どもの鳴き声、外国からの観光客による電話の叫び声、犬の吠える声……不安と緊張がその場の空気を異質なものへと変化させていました。

 

ようやく実家の家族と連絡が付いた頃、ホテルの客や近隣住民を先導して付近の小学校への避難が決定。

上司から仕事にならない為、帰宅して良いと言われましたが、実家方面の道が封鎖されているらしいこと、また通勤には原付バイクを利用していたことで暗い間の帰宅は困難と判断し、共に小学校へと避難をすることに。

 

奇跡的にこの時点でまだ付近は停電しておらず、外は少し崩れた住宅街や家々の間を通り避難。もちろんこの間も余震は続きます。

無事小学校へ付いたとき、テントを張る人や車でラジオを聞く人、犬や猫を連れているためコートを羽織り外に居る人など大勢の人が校庭に居ました。

 

体育館には多少余裕はあるものの、薄い毛布に直座り。風と床からの冷えで皆震えておりました。

小学校のプレイルームのようなところへ避難させて頂き、ようやくテレビを見ることが出来たのですが.....今朝通ってきた道路、いつも祖母が散歩する道、母と弟を職場へ迎えに行く河川敷、全てがいつもと全く違う風景となり果てています。

そして度重なる余震。この余震のせいもあり、未だに響き渡る地震速報と大きく揺れる地震が苦手です。

体育館やプレイルームに広がる多くの地震速報のサイレン。子どもの鳴き声。ぐらぐらと揺れる度に軋む壁や窓。地震速報が鳴ると身体が硬直し手が震え、時折涙が出ることに気付いたのは熊本を離れ、上京した後でした。